ポルトガルの古都ポルト(Poruto)にバス移動
2016年(平成28年)12月24日(土)
サンティアゴ・デ・コンポステーラから長距離バスで、ポルトガルに入り古都ポルトに向かいます。ポルトガルは二回目だけどリスボンだけだったのでポルトは初めて。ポルトガルの語源にもなった建国の地で京都みたいな所かな。
※ トップ画像はドン・ルイス1世橋から見るポルト歴史地区
スペインは1万5千Kmもの鉄道網を持ち、主要都市間は鉄道で結ばれている。ポルトへも鉄道で行こうかと考えたが、乗り換えが難しくて断念。
山がちな国土を細かく網羅するバス便も発達しており、ポルトまで233Kmを3時間15分で着きました。
ポルト郊外のバスターミナル着。メトロ駅が隣接していて市内に入りやすいのだが、
①チケットは現金はダメでカード必要 ②自動販売機が少ない ➂販売機に英語の説明がない ④行先の表示が少ない ⑤無人化が進んでいて駅員がいない、聞けないととまどいます。
とりあえず予約してある宿へ向かうのだ。
クリスマスイヴのポルトを歩きます
ローマ時代にポルトゥス・カレ(Porutus Cale 、カレの港)と呼ばれたこの地に王国が起こり、ポルトガルと呼ばれるようになりました。現在もリスボンに続く第二の都市(市内24.4万人しかいないけど)として栄える。港町で昔からの輸出特産品がワイン、イギリスではポートワインと呼ばれました。
クリスマスイヴの夜を歩いてみます。
クリスマスイヴなのでほとんどの店は早く閉まっていたが、お菓子屋だけが最後の稼ぎ時とばかり開いている。いろいろ派手なケーキ類が目立つな。
ポルトの名物料理であるフランセジーニャ(Francesinha)をいただく。もとはフランスのホットサンドであるクロックムッシュをアレンジしたものらしい。薄いパンにロースト肉、ハム、ソーセージなどをはさみチーズで包んで焼いてソースをかけた物。「フランスの女の子」というカワイイ名前に反し、タンパク質のオンパレードでサンドイッチらしさはほぼ消滅。フライドポテトと共にいただくと恐るべきカロリー量となります。厳密なレシピは無く各店でいろいろ工夫しているようだ。
※ フランセジーニャを紹介するブログ に移動します
ポルトにあるファンタジックな内装の書店として知られるのが「レロ・エ・イルマオン」。内部を見て見たかったがすでに閉店。明日も午前中は開かないよね。午後にはリスボンに行っちゃうよ。
※ レオ・エ・イルマオンを紹介するブログ へ異動します
サン・ベント駅(Estassao de Sao Bento)のアズレージョ
ポルトガルを代表する美術がアズレージョ(Azulejo)。上薬をかけて焼いた青いタイルに描いた絵であるが、教会の装飾の必需品。1900年にマルカス・ダ・シルバ設計によって建てられたサン・ベント駅は、そのエントランスが2万枚のアズレージョによって飾られ、世界で最も美しい駅と称えられる。
この地のハイライトはドン・ルイス1世橋
2019年(平成28年)12月25日(日)
キリスト教国のクリスマスは旅行者には鬼門。何しろ聖なる日であり、教会に行くなり家族で過ごすなりするため、少なくとも午前中は店舗・観光地はもとより公共交通機関まで停まってしまう。閉鎖に関係ない観光地としてドン・ルイス1世橋に行こうとしたが、案の定メトロは停まっており、歩いて出かけました。
ドン・ルイス1世橋はポルトの南に流れるドウロ川にかかる橋。1886年にエッフェルの弟子であるセイリグの設計で建設された。全長395mの橋上や対岸から見るポルト歴史地区は美しく、ガイドブック等に必ず載る風景を見ることができる。
ドウロ川の北の丘陵地帯に広がるポルト旧市街。ポルトガル発祥の地であり、数々の歴史的建築物のため1996年「ポルト歴史地区」として世界遺産に登録されている。
クリスマスの朝のポルトを歩く
クリスマスの午前中はどこも閉まってます。トラタロウが子供の頃のお正月はまだコンビニも無く、開いてるみせは皆無でしたが似たような状況です。外観だけを見れる名所を周りました。
24年ぶりのリスボン(Lisbon)です
宿に戻って預けておいた荷を受け取り、少し郊外のカンパニャン駅へ。12:52発のリスボン行きインターシティに乗り込みます。リスボンまで約300km、3時間で着きました。
リスボンで長距離列車が発着するのがサンタ・アポローニャ駅。1回目は1992年冬スペインからの夜行列車で着きました。列車の中で眼鏡のレンズがはずれてしまい、着く早々眼鏡屋を探したことを覚えています。
駅のたたずまいは変わりませんが、昔は無かったメトロができていたのがありがたい。大荷物を背負ってお宿のあるバイシャ地区まで歩かずにすみます。
昔と変わらぬサンタ・アポローニャ駅と思ったが、1992年のアルバムを見ると赤茶色の塗装で全然違ってました! トラタロウも30歳くらいで若いのです。
リスボン・Lisbon(ポルトガル語ではLisboa、リジュボア)は言わずと知れたポルトガルの首都。かつてはイスラム勢力(ムーア人)の支配下にあったが、ボルゴーニャ王朝の創始者アフォンソ1世が1147年に奪回しポルトガル王国の首都となる。
ポルトガルは今は大きな国ではないが、大航海時代は香辛料貿易を独占し、欧州随一の金満国家だった。その栄華の跡がリスボンの随所に残る。
大人のオモチャ箱ペーナ宮殿(Palacio Nacional da Pena)
リスボン市内は前回いろいろと周ったので、今回はリスボンの西に位置するシントラ(Sintra)地区にあるペーナ宮殿に行ってみました。1836年にポルトガル女王マリア2世の王配にして共同統治者のフェルナンド2世が建てさせたオモチャ箱のような城です。
お宿近くのロシオ駅からシントラ行きの列車がでます。観光客でほぼ満席になりました。ツーリスト用のお得な1日券、リスボアカード(18.5ユーロ=¥2257)を買ったので切符は買わなくても行けます。
シントラ駅に着いたらすぐペーナ宮殿行のバス(434番線、往復5ユーロ)に乗りましょう。バスの運行数は限られているので、うかうかするとすぐに満席・満員となり待つことになりますので。山道を進み20分ほどで入口に到着。
※ リスボアカードを説明するコンテンツ に移動します
434番(上の看板)はペーナ宮殿行で混みますが、1時間に4本。下の看板は435番でレガレイラ宮殿方面に行くバスです。
シントラはイギリスの詩人バイロンに「この世のエデン」と呼ばれましたが、ペーナ宮殿の他にシントラ宮殿やムーア人の城塞跡などの見所もあります。歴史的価値はともかく面白そうなのがレガレイラ宮殿。王族の別荘を改装したお城ですが、ドラクエ世界のような雰囲気で人気です。
※ レガレイラ宮殿を紹介するブログ に移動します
標高528mの山モンテ・ダ・ペーナの山頂には修道院がありましたが、1755年の地震で崩壊。この地を訪れたフェルナンド2世が買取り自分好みの城を築かせます。1995年に「シントラの文化的景観」として世界遺産に認定されています。
ムデハル(キリスト教・イスラム教美術の融合)、ゴシック、マヌエル様式、ルネサンスなど雑多な様式の組み合わせだとか。まあ、どれも区別はつきませんが。
フェルナンド2世はドイツ領邦国家の出身だが、英のヴィクトリア女王夫妻とは従兄、ベルギー国王の甥、ブルガリア国王の叔父と婚姻関係でこり固まった欧州上流階級らしい血縁の持ち主。
ファンタジックなお城といえば、ドイツのノイシュバンシュタイン城。これを造らせたババリア王ルードヴィッヒ2世が有名だが2人は従弟だそうです。ペーナ城の方が30年ほど早く造られましたのでノイシュバンシュタイン城に影響を与えているかも。
リスボンお約束の名所がベレン(Belem)地区
リスボンはあまり観光する予定はなかったが、同行者が発見のモニュメントを見たいというのでベレン地区へ。バイシャ地区のフィゲイラ広場からトラムで西に30分。世界遺産のジェロニモス修道院やベレンの塔もある有名な観光地です。
ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jeronimos)は1502年に着工され、インドとの香辛料貿易で得た有り余る富を注ぎ込んで300年あまりかけて完成したポルトガル富貴時代のシンボル。1983年にベレンの塔と合わせて世界遺産に登録されました。
リスボアカードがあれば入場無料なので入ろうかと思ったら月曜日は休館でした。まあ、前回見ているんで良いのですが…負け惜しみ。
発見のモニュメント(Padrao dos Descobrimentos)は1960年に建てられた大航海時代を記念するモニュメント。キャラベル船を模した高さ52mの記念碑で、先頭のエンリケ航海王子を含む33名の航海者の像が配されている。広場には世界地図が描かれ「発見」の年が刻まれるが「日本発見」は1541年とされる。
航海はしなかった航海王子
世界史の教科書にも出てくるのがエンリケ航海王子(Infante Dom Henrique)。イスラム勢力を駆逐しアヴィス王朝を創始したジョアン1世の三男で、探検や航海者の援助を行い、西アフリカ探索を進め、これが後の喜望峰到達、インド到達につながるため航海王子と呼ばれました。
本人は船酔い体質だったと伝えられ、実際の航海はしていませんが、それは王族の仕事ではないですよね。
発見のモニュメントの西に立つのはマヌエル1世によって1515年に着工されたベレンの塔。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を記念して建てられたが、テージョ川の監視という実用性もある。その白く優美な姿は「テージョ川の公女」と称えられています。
幸運王マヌエル1世
ポルトガルに残る建築物を調べると建設者マヌエル1世とマヌエル様式の名がたびたび出ます。
マヌエル1世は在位1495年~1521年のポルトガル王だが王位継承順位が低かったにもかかわらず王位につけたことと、その在位期間にインド航路開拓・香辛料貿易独占で膨大な利益をあげ、ポルトガル王国の全盛期を現出できたことから幸運王と呼ばれました。
国内ではその財力を背景に中央集権化を進め、絶対王政を実現。王の権威の象徴としてジェロニモス修道院を始めとして数々の建築物を建てさせました。
大航海時代らしく、天球儀、船、海藻、貝など海や航海に関連する物やインド・南米の文物モチーフにした建築様式が確立しマヌエル様式と呼ばれます。
リスボン雑景
リスボンの市電(トラム)は1873年創業(当時はまだ鉄道馬車)と長い歴史を持つ。1901年に電化され、モータリゼーション化やメトロの開通にも負けず5路線、総延長48kmで現在も運行。新しい車輛もあるがクラッシックなやつも現役だ。
1498年5月20日、ヴァスコ・ダ・ガマ率いる船団がインド南西カリカットに到達したのがインド航路の開拓で、ポルトガルそして欧州諸国が世界に進出、やがて世界を制圧する起源となります。
ポルトガルや欧州から見れば偉人でしょうが、制圧された地域の人たちから見れば大悪人。1497年ヴァスコ・ダ・ガマが立ち寄った東アフリカのマリンディ(現・ケニア)には彼が建てさせたという十字架がありますが、こんな落書きもありました。
ヴァスコ・ダ・ガマもひどいヤツでイスラム教徒の虐殺とかやっています。まあ、長年イベリア半島を支配していたイスラム勢力をやっと駆逐したという時代背景もありますが。
※写真は1998年のケニア・タンザニア旅行時のものです。
ポルトガルを代表する食材が干しタラのバカリャウ(Bacalhau)。昔から冬場に食物が不足する欧州の保存食が干しタラ。保存食とした他にカトリックでは肉食禁止期間があったので、その時期の主要食材として重宝されました。ポルトガルはバカリャウを食べる習慣が今も続き、多彩なレシピがあります。
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