スリランカのんびり旅行最終版です。3週間にわたる旅もゴールが見えてきました。しゃれではありませんがゴール(Galle)の要塞都市を見てコロンボに戻ればそこがゴールです。
ゴールはスリランカ南部最大の街でオランダが築いた要塞都市が残ります。24年前に一度行っていますが、スマトラ島沖地震の津波で受けた被害は大丈夫かな。
コロンボは歴史的建築物の多いフォート地区や夕陽の名所をぶらぶらしていました。
旅も終わりに近づきます
22日間の旅の最後の4日間です。滞在費は宿を少し良くしたので¥12747と少し高め。22日全部の滞在費は¥84809、1日平均¥3854と2人分としては安くあがりました。
まあ露骨に高い外国人料金を請求される世界遺産遺跡や国立公園サファリに行かなければこんなもんでしょう。
南部最大の街ゴール(Galle)です
マータラからの移動とお宿
2024年7/26(金)
マータラからゴールへは約45kmほどで頻発するローカルバスで1時間半ほど。
バス車内には仏像とヒンドゥー教女神が祀られるが、この女神ラクシュミーは仏教では吉祥天として崇められています。
バスはインド洋ぞいの道を走るが、沿岸の街もにぎやかな感じです。
ゴールはスリランカ南部最大の街で人口10万人ほど。シンハラ人が7割を占めるがムスリムのムーア人も25%ほどいる。インド洋に突き出した半島部が欧州人により要塞都市とされ、1988年世界遺産となりました。
ゴールはそれなりの都市で観光客も多いため宿は多いです。久しぶりに(あれジャフナ以来かな)涼しさが欲しくなりエアコンがある Ariyadasa Guest House にしてみました。1泊¥3300、朝食付き、バススタンドから徒歩3分。
2004年のスマトラ島沖地震の津波でゴールも死者数千人という被害を受けたとのこと。でも見た目被害の跡は無く主要部は復興している様子です。
世界遺産ゴール要塞都市を回ります
ゴールはかつてポルトガル、オランダ、イギリスの支配を受けた地。1663年にヨーロッパ式の稜堡要塞が建てられ、その内側に街が作られた。現在はスリランカ南部を代表する観光地です。
24年前にも来たはずだが、ほんの一部しか覚えていません。ひとの記憶はあてになりませんので写真はいっぱい撮りましょう。
稜堡要塞はヨーロッパのお城の一種ですが、高い城壁で囲まれた中世のお城(フランスのカルカソンヌなど)と違い低くて厚い城壁です。これは大砲が発達すると高い城壁は容易に破壊されるため、砲弾の衝撃を受け止める低くて厚い城壁に変化したため。
あちらこちらに VOC という文字を図案化した紋章が残りますが、これはオランダ東インド会社の略称。植民地支配の会社ですが統治・徴税・軍事など国家が行う権利が与えられた官営企業です。やがてイギリスも同じような東インド会社を作り、インド圏を支配していきました。
城内にあるヒストリカル・マンションは宝石屋が入っているが、多くの骨董品を並べた無料博物館にもなっているので寄ってみると面白い。ここは覚えていました。
スリランカの多くの街にあるのがCargill’sのスーパーマーケット。ゴール城内のそれは昔の建物を利用した趣のあるスーパーになっている。
出発地点コロンボに戻ります
鉄道でコロンボに行ってはいけない
2024年7/27(土)
コロンボ・ゴール間は120kmほど。前回(24年前だけど)来た時は鉄道でしたが、高速道路ができたのでバスでも速いはず。でも鉄道も急行なら3時間もかからないので乗ってみたら大後悔です。
ゴール・コロンボは2等車で500ルピー=¥268と安い。でもゴール始発でないので最初から満員状態でやってきました。その後も満員で到着までの2時間40分立ちっぱなし。
そういえば24年も鉄道で行って立ちっぱなしだったよな。状況は変わっていませんでした。高速バスなら座っていけるのでオススメはそちら。
鉄道だと海岸線を走るので景色は良いかも。
コロンボの宿は最初に来た時にめぼしをつけておいた所。エアコン付きの部屋は割と良い。
詳しくはこちらをご覧ください
海外旅行記NO64 スリランカ ①コロンボ、ジャフナ編 2-3コロンボのオススメの宿はここ
夕陽の名所はゴール・フェイス・グリーン
あとはマレーシアに帰るまでコロンボ市内をごろごろ。夕方に夕陽の名所に出かけます。ペター地区のお宿から歩いて30分ほどで海岸へ行けます。
ゴール・フェイス・グリーンという緑地帯があるあたりが夕陽ポイント。夕刻には地元民や観光客が集まり屋台も出ます。
バススタンドのあるペター地区に宿を取ると帰りが便利。ペターと表示のあるバスに乗れば近くまでは確実に帰れます。バス代も¥20しません。
休日の フォート地区(Fort)は静かだな
2024年7/28(日)
コロンボの西端がフォート地区。植民地時代から行政の中心地で古いビルが残される。日曜日に行ったら場所柄人が少なくて静かでした。
フォート地区の一角にあるのがダッチホスピタル(Dutch Hospital )。オランダ植民地時代からあるコロンボ最古の建物のひとつだが、改装されショッピング&ダイニングとしてオープン。
オランダは名前がいっぱい
Dutch(ダッチ)は本来ドイツとその周辺に居住するゲルマン人を意味する言葉でしたが、やがてドイツ人は German と呼ばれ Dutch はオランダ人のみをを意味するようになりました。
オランダの正式名は英語で Kingdom of the Netherlands(ネーザーランズ王国)で Netherland は「低地」を意味。オランダ語では Nederland で「ネーデルラント」と読みます。
オランダ人に出身国を聞くとネーデルラントかホラント(Holland)と答えます。ホラントは首都アムステルダムを含む西部の州で、スペインからの独立戦時に中心となったことからオランダの俗称のひとつになります。
オランダは Holland のポルトガル語表現 Hollanda が日本に伝わりできました。ポルトガル語は大文字のHは発音しないのでオランダになりますね。漢字では「阿蘭陀」か「和蘭陀」と書き、漢字1字でオランダは「蘭」で表現します。江戸時代オランダ伝来の学問は蘭学と呼ばれました。
街の雑風景です
3週間ローカル食堂の現地食を堪能しました。その様子はこちら
世界のB級グルメ/19 ローカル食堂事情 in スリランカ に移動します
その他のスリランカB級ぐるめはこちらで紹介しています
世界のB級グルメ/20 単品物・スナック・お菓子 in スリランカ に移動します
帰途につきます
2024年7/29(月)
マレーシアに帰るエアアジア便は10:40発。コロンボから空港まで直通ワゴン車で1時間もかかりませんが、余裕をもって6:30にはワゴン乗り場へ。
場所・料金等の詳細は 海外旅行記NO64 スリランカ ①コロンボ、ジャフナ編 に書きました
空港到着時点で残りのスリランカ通貨は370ルピー。¥200相当では物価の高い空港では何も買えないかな、と思っていたらカーギルスのコンビニを発見。ジュース、ビスケット、アイスを組み合わせて370ルピーちょうど使い切りました。
内戦時代は重要地点である空港は撮影禁止。実際にトラタロウが1回目のスリランカ旅行(2000年12月)から帰国したあとタミル勢力による空港襲撃事件(2001年7月)がありました。
内戦が終結して久しいのにコロンボ空港はまだ撮影禁止でした。
スリランカから日本に帰るにはそれなりに時間がかかりますが、マレーシアに帰るには2時間ちょっとでOK。東京-沖縄のフライトより短いですね。
64回目の海外旅行も無事終了。航空券¥60522(2人分)、現地滞在費¥84809(22日間、1日あたり¥3855)で計¥135331、1日あたり¥6151でした。お金のかかる世界遺産やサファリに行くともっとかかりますけど。
ちなみに2000年のスリランカ旅行では正味8日間で滞在費は202USドル。1ドル=¥110だったので計¥22220、1日あたり¥2777。円高で、スリランカの物価全体がまだ安く、入場料は外国人料金だったが今ほど法外ではなかったのが理由です。
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